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2011年09月 の放送

2011年09月01日放送

宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇(1)

9月のテーマは「宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇」についてです。
ここ宗谷は、たび重なるロシアの南下に備え最前線で北方警備をする藩士がいました。道内には現在13の文化年間の北方警備で亡くなった会津藩士の墓石が残されています。宗谷に三基、利尻島に八基、焼尻島に二基、墓は現存しませんが増毛に二基の墓がありました。
第一週は、会津藩と北方警備、浮腫病死、宗谷護国寺に眠る会津藩士の墓、原田嘉重郎、平田八十八、要「某」などについてです。今月は元宗谷支庁 副支庁長で、宗史会代表の吉原裕さんにお話を伺っています。

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吉原 裕さん
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原田嘉重郎の墓
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平田八十八の墓
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要の墓

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2011年09月08日放送

宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇(2)

第2週目は・・・
宗谷護国寺の釣鐘は、稚内市指定第一号文化財になっています。なぜこの釣鐘があったのか。当時、蝦夷地の宗教施設、宗教の機能は「弁天社」が主体的にになっていた、幕末会津の悲劇など、宗史会代表 吉原裕さんに伺っています。

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吉原 裕さん
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稚内市指定文化財
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稚内市指定文化財 (2)

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2011年09月15日放送

宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇(3)

第3回目は、庵原弥六の時代とその死について伺っています。天明という時代や宗谷護国寺跡に残っている庵原弥六の墓石について、宗史会代表 吉原裕さんに伺っています。

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吉原 裕さん
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庵原弥六
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2011年09月22日放送

宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇(4)

今月は、宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇と題してお送りしています。
第4回目は、庵原弥六には、後嗣(後継ぎ)がいませんでしたが、寛政10年(1798年)の蝦夷地巡見で三橋籐右衛門がお家再興を幕府に訴え、「庵原久作時敏」が後嗣となりました。今回も宗史会代表 吉原裕さんに伺っています。

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吉原 裕さん
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2011年09月29日放送

宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇(5)

今月は、宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇と題してお送りしています
最終回は、庵原弥六の孫にあたる庵原亮平(後に函斎と号す)と農業開発についてです。
亮平の(函斎)長男が「庵原直一郎」、三男が「庵原勇三郎」。亮平は、寛政6年(1794年)生まれで、父直一が亡くなった時は18歳でした。幕府普請役となり現役時代は、特に蝦夷地とは関係しませんでしたが、三男「勇三郎」が安政元年(1854年)箱館奉行、竹内保徳に従って蝦夷地に就役した時に、函斎も箱館に渡りました。「網走市史上巻」によれば、諸記録に、安政4年(1857年)宗谷詰調役 庵原勇三郎とあり、宗谷に詰めていた。函斎の蝦夷地での活躍は、隠居後の箱館時代に「御手作場」と北海道の農業開発に多大な貢献をしました。

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吉原 裕さん

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