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宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇(5)

今月は、宗谷護国寺の釣鐘の謎と会津藩の悲劇と題してお送りしています
最終回は、庵原弥六の孫にあたる庵原亮平(後に函斎と号す)と農業開発についてです。
亮平の(函斎)長男が「庵原直一郎」、三男が「庵原勇三郎」。亮平は、寛政6年(1794年)生まれで、父直一が亡くなった時は18歳でした。幕府普請役となり現役時代は、特に蝦夷地とは関係しませんでしたが、三男「勇三郎」が安政元年(1854年)箱館奉行、竹内保徳に従って蝦夷地に就役した時に、函斎も箱館に渡りました。「網走市史上巻」によれば、諸記録に、安政4年(1857年)宗谷詰調役 庵原勇三郎とあり、宗谷に詰めていた。函斎の蝦夷地での活躍は、隠居後の箱館時代に「御手作場」と北海道の農業開発に多大な貢献をしました。

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吉原 裕さん

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